あたまのなか

Twitterに収めきれなかった観劇後の頭の中。ネタバレ注意。メモなので、読み物としての面白さは期待できません。

2021/3/12 マシーン日記@ロームシアター京都

マシーン日記の感想をTwitterで呟いてたらだんだんとんでもない長さのツリーになってきたのでブログ作って逃げてきた。
演出家と脚本家にめちゃくちゃキレてますがこれは100%賛辞なので大目に見てください。演出家と松尾スズキを許すな。

これまでのあらすじ


観劇から時間が経って感想をこねくり回してる間に矛盾が生まれ始めたけど、いったん無視して観劇直後の感想に戻る。


伏せ字にしますが芝居が芝居なのでこれ以降多分ネタバレと共に更に過激な表現が増えていくと思います。どんどん豪速球投げてくよ。凍結されないといいね。


1幕を観終わった時点ではまだなけなしの倫理観で抵抗して、既に観劇済みの母に「ミチオはどうしようもないクソ野郎だけど、なんかかわいそうに見えてきてた」ってLINEして、まぁかわいそうに見えてきてた時点でもう倫理観が敗北しかかってるんですが、ミチオをちゃんとクソ野郎たらしめていた冒頭のレ○プですら2幕でサチコに「あれ合意だったんだけど!」とか先生にマウント取るための道具にされてしまって、あのレ○プだけがミチオの自律心、というか、「何者にも支配されないミチオ自身の意志と選択、あるいの名は自由」だったのに、結局サチコのコントロール下に置かれてしまったのあまりにも酷くないですか!?というかそもそもミチオの自律心がレ○プとして描かれるのなんなんですか!?だから松尾スズキとは馬が合わないんですよ!!
このあたりが完全にミチオ=横山さんのキャスティングと横山さんの芝居の方向性の勝利だと思う。冒頭のレ○プでミチオの本質はクソ野郎であることは分かってるはずなのに、横山さんがやるミチオは母性と共感を誘う顔をするし、あとものすんごく常識人なんですよね…。まぁこうなるだろうなと分かってて、横山さんのミチオなら観れそうだなぁと思ってチケット取ったんですが、逆に罠に嵌められた気がする。だって結局ラストには、冒頭でどうしようもないクソ野郎だと刷り込まれたミチオに感情移入してるんですよ。あの物語の中で、レ○プ魔が一番の人格者なんですよ。観客の倫理観をこんなにもねじ曲げて楽しいか!!楽しいんでしょうね!!チクショウ!!!!


次。カイン・コンプレックスの解剖。
最初、パンフにカイン・コンプレックスの話が載っていることがいまいちピンと来なくて「兄弟間の同胞葛藤っていうか、サチコの先生に対するマウントの話だったのでは?」と思ってたんですよね。多分その原因は、サチコの先生に対する虚栄心、というのが適切か分からないけど、「マウント取りたい欲」みたいなのって厄介なオタク(笑)やってる人間だったら絶対に当事者なのですごく実感を持って理解してしまったこと、あと、アキトシがミチオを支配するのってカイン・コンプレックスというかアキトシ自身の支配欲のせいじゃない?別に相手がミチオじゃなくてもアキトシはあぁするのでは?と思ってしまったこと。
でもさっき触れたサチコがレ○プを合意だったと言うシーンに「お前こそ順番逆になってんじゃん〜〜〜!!」ってツッコミ入れてようやくアキトシのカイン・コンプレックスが腑に落ちた。ミチオにレ○プされて、そのミチオを先生に寝取られて、そこで初めて先生への対抗心からミチオへの愛情が生まれたのに、順番を入れ換えてレ○プ時には既に愛があったと嘯くサチコ。ミチオがレ○プして、ミチオへの対抗心でサチコと結婚したのに、順番を入れ換えてサチコと結婚した後にレ○プされたと信じるアキトシ。順番を入れ換えてつじつまを合わせようとするこの「10を3で割る」ような感情の正体こそカイン・コンプレックス。なんだ似た者同士じゃん〜〜〜お似合いじゃん〜〜〜!!
普通気付くの逆だね多分。アキトシのカイン・コンプレックスに気付いてからサチコの精神構造を結びつけるのよね本当は。深読みマンは書かれていることを書かれている通りに解釈するのが苦手なのでたまにこうやってこねくり回しすぎます。反省。


最後。オズの魔法使いの話。
観劇直後、正直あそこでオズの魔法使いが出てくる意味があんまりよく分からなかった。いや、確かにそれぞれの登場人物をドロシー一行に当てはめると登場人物の見えてなかった部分が見えてきたりはするんだけど(アキトシ=臆病ライオン、は特にオズを引き合いに出さないとなかなか難しいかも アキトシの言動からはアキトシの本質である「臆病」が結び付きにくいので)、それってオズの引用の仕方として手垢つきまくるぐらいやりつくされてるのでなんかちょっと安直すぎていまいち面白くないなぁ、と。
でも、ふと、急に、腑に落ちてしまった。腑に落ちて後悔した。以下、腑に落ちた瞬間に思わず別垢に投げたツイートのコピペ。

いや、そう、そうですよ、確かにドロシーは「over the rainbow」とか歌っときながら結局「there is no place like home」とか言ってカンザスの箱庭に帰ってきちゃう女の子ですよ そうだけどさぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

そうだけどさぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!泣

サチコは本当は、あの構造的な支配から逃げようと思えば逃げられたはずなんですよ。全てのしがらみから逃げ出して新しい人生歩めたはずなんですよ。それなのに、薄っぺらなヒロイズムに酔ってミチオに「一緒に逃げよう」とか言っちゃうし、カイン・コンプレックス(と同じ構造の何か)に絡めとられてレ○プを合意だとか言っちゃうし、虹のかなたになんて夢見がちに歌っときながら結局構造的支配の中に帰ってきちゃうんだよなぁ。そこが、構造的支配の下が、暴力的な夫の庇護下が、ドロシーにとっての「我が家」だから。
いまだかつて、オズの魔法使いをこんな悪意に満ちた引用した人いるんですか!?オズの魔法使いは個人的にめちゃくちゃ思い入れの強い作品なんですが、土足で踏みにじられてゴミ溜めに捨てられました。松尾スズキを許すな!!!!


マシーン日記は、構造的な支配からの解放の話だと冒頭に呟いた。


でも、解放の話であることは間違いないはずなのに、描いているのは「解放された先にあるのは"自由"」なんてハッピーエンドじゃなくて「解放された先にあるのは"別の支配構造"」。兄の監禁から、兄嫁の精神支配から、キャラ変前の姿を知ってる町から、これまで縛られていたもの全てから解放されたミチオの前に現れるのは、自由なんかじゃなくて「社会」という新しい箱庭と先生による精神支配。いくら虹を越えても、プレハブ小屋から脱出しても、生きてる限り何者かの支配下からは抜け出せない。下層階級合格の鐘が鳴る。キンコンカンコン。


ここまで感想を展開してきて、最後にようやく核心の話をします。
この作品で松尾スズキが本当に描こうとしてた支配構造って、多分DVでも監禁でも社会でもなくて、「家族」だと思うんですよ。自分の手で選ぶことも許されず、どう足掻いても破壊できない、血の繋がりというしがらみ。
私は家族大好きマンで家族の枠組みぶっ壊したい!みたいな欲が無いので、作家のこの本音に気付くのにめちゃくちゃ時間かかりました。彼が破壊したいのはプレハブ小屋でも町でもなくて血の繋がりか。それで先生とミチオの子供の話が出てくるのか。なるほどね。支配構造は血と共に受け継がれる。いったん家族全員ぶっ○して枠組みを破壊したけど、先生の腹からはまた新しい支配構造が生まれる。
家族構造を破壊してしまいたいと思ってるんだろうな、という友達が身近にいるのでなんとなくその精神構造は理解できるつもりです。こんな目に見えない、割り切れない、「10を3で割る」話を現実世界でもぶっ壊してしまえばもっと生きやすくなる人間がどれだけいるんだろう。私は松尾スズキを許すな!!!!の人間だけど、一方であの血の繋がりというしがらみの破壊の話に救われる人もいるのかぁと思うと、これが宗教戦争か…という感じですね。これは完全な拡大解釈です。というかまぁ、しがらみ絶ちきれてませんけどね。子供生まれるしね。絶望。


以上、松尾スズキの戯曲嫌いやなぁ、でも嫌いなりに向き合ってみようかなぁ、と思った結果更に嫌いになったという話でした。松尾作品、いずれまた観に行く気がします。「やっぱ大っ嫌いだわ!」と言うために。あなたの悪意を踏み台にしないと自分の善が信じられないので。
困ったなぁ。


※3/13追記
横川さんの劇評を読んで、共依存の話をしなきゃだめだったなぁと思いました。一応、私の頭が足りなかったという事実も含めて観劇直後の率直な感想メモとしてこの記録は残しておくけど、かなり議論がずれてる気がするのであんまり参考にはならないかもしれません。
ちょっとバイアスかかりすぎたね。精進します。